かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。
今回は、立町にあった「龍の湯」です。
「龍の湯」は、信州大学教育学部の北側を東西に通る道沿いの、現在は「連絡先 伊藤」と書かれた月極駐車場の場所にありました。ここは立町でも一番西寄りになります。写真左端の緑は、教育学部キャンパス内の木です。
信大の学生に愛用された銭湯だったはずです。
龍の湯は、平成元年(1989)発行の地図にも載っていました。
昭和33年の地図には、「滝の湯」(たきのゆ)とありますが、龍と滝(瀧)で、字が似ていることによる間違いだと思われます。
立町(たつまち)にあるから、龍の湯(たつのゆ)と名付けられたのでしょう。地名を生かした、いいネーミングです。
かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。
今回は、桜枝町に明治35年(1902)頃から平成2年(1990)まであった「亀の湯」です。
亀の湯は、桜枝町といっても、仁王門裏から鬼無里方面に向かう東西の道ではなくて、その途中の玉井薬品前から北に横沢町へ向かう荒町と呼ばれた通り沿いの右(東)側にありました。現在は上西之門町へ抜ける小路の角の駐車場になっている場所です。
写真は、北側(横沢町側)から亀の湯跡を見たところ。写真中央の軽ワゴン車が停まっている付近がそうです。奥の突き当たりが玉井薬品で、左右には桜枝町の通りが走っています。
諏訪町(長野市立図書館近く)にも同名の亀の湯がありますが、それぞれ別の銭湯です。亀の湯という銭湯は各地にあり、銭湯としては一般的な名称でした。
それでも、興味深いのは、東之門町に2007年まであった「鶴の湯」とは、仲見世を挟んでほぼ東西に対照的な位置関係にあったことです。「鶴の湯」と「亀の湯」が善光寺の参道を挟んだ東西に位置していたというのは、単なる偶然とは思えません。互いの関係を意識して名付けられたのでしょう。
「鶴の湯」については、小林玲子の善光寺表参道日記をどうぞ
かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。
今回は、田町にあった「田毎(たごと)の湯」です。
田毎の湯は、権堂アーケードの交番前から北に「秋葉横丁」を入って、ます栄(写真左側のクリーム色の建物)などの向かい側にある、現在は月極駐車場になっている所にありました。
『権堂町史』によると、田毎の湯が開業したのは、明治44年(1911)7月のことでした。そして、昭和61年(1986)4月1日付の信濃毎日新聞によると、昭和61年3月11日をもって閉鎖されました。経営していたのは、西之門町のムラタヤ(久保田甫社長)とのことです。
田毎の湯とは、しゃれたネーミングですが、田毎とは田町の田の字からイメージして名付けられたのでしょう。メーンストリートからは外れた場所にあるとはいえ、権堂にいた芸妓さんたちも訪れる華やかな銭湯だったはずです。
かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。
今回は、三輪田町にあった「富貴の湯」です。
富貴の湯は、信州会館のある田所町(たどころちょう)通り沿いにあり、この写真中央の「こばやし動物病院」の駐車場になっている場所にありました。
銭湯のなかった岩石町や新町の人にもよく利用されていたでしょう。
隣接地には、当時の面影はほとんどなくなっています。今では病院が集まる場所ですが、昭和30年代当時は1軒もなく、こばやし動物病院、南側のやなぎさわ接骨院・鍼灸院、北側の武内歯科医院、向かい側の矢島内科医院は、昭和30年代にはいずれもまだありませんでした。
かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。
今回は、東町にあった「保命湯」です。
保命湯は、現在は加藤氏宅(写真左側)と「ブックデザインゆにーく」(写真中央の建物)の間にある、本久の月極め駐車場となっている場所にありました。ここは、東町でもかなり南に位置し、前回紹介した西町の「柳の湯」からも、善光寺表参道(中央通り)を挟んで徒歩2、3分の至近距離です。
柳の湯よりは長く残り、昭和40年代も営業していました。
加藤氏宅の所には、昭和30・40年代当時は、本久の本社が置かれていました。また近所には、今はない、魚屋、自転車店、菓子店、食堂などがありました。今では住宅地となっていて想像もできませんが、当時は活気のある通りに面した銭湯という印象だったことでしょう。