以前、昭和24年(1949)4月に長野商工振興会が発行した『長野市とその周辺』という本には、今はなくなってしまった銭湯がたくさん載っていることを紹介しました。 004 2つあった銭湯「亀の湯」.
かつてあった銭湯の跡地を、昭和33年の住宅地図をもとに訪ねてみることにしましょう。
今回は、西町にあった「柳の湯」です。
西町といっても、南北の通りではなく、東西の「官庁通り」に面していました。西町の大門町との境です。
柳の湯は、写真の信金大門町支店の西側の、今は駐車場になっている場所にありました。写真左側の車の所(たかの写真館駐車場)は、昭和30年代当時は、美容院となっていました。
今となっては、奥行きは5台分程の駐車場で、傾斜地でもあるので、ここに銭湯があったというのは、にわかに信じられません。しかも、この官庁通り沿いには、西に歩いて2分程の所に、現在も続いている「亀の湯」(諏訪町)もあって、銭湯の激戦地だったと思われます。
昭和40年代の地図を見ると、柳の湯だった場所は、大同生命長野支店になっています。
いよいよ、051 よみがえる門前町最大の年中行事でもお知らせした「ながの祇園祭 御祭礼屋台巡行(ごさいれい やたいじゅんこう)」が7月15日の当日を迎えます。
まちでは、屋台巡行の経路などが書かれたパンフレットが配られていました。
北は善光寺境内、南は長野駅前までの広範囲を、お先乗りの白馬と少年、4か町(権堂町、南石堂町、新田町、元善町)の屋台が巡行することは、門前町の一体感を感じる意義ある日となることでしょう。
最も早い権堂町は、7時15分に秋葉神社を出発。再び権堂へと戻ってくるのは、17時頃となる見込みです。
北石堂町は置き屋台で参加し、11時から16時30分まで、信金石堂支店前で、長唄が披露されます。
ところで、この屋台巡行は3年ぶりの開催とパンフレットに書かれていますが、3年前は善光寺御開帳に合わせて行われましたので、7月の祇園祭として行われるのは、5年ぶりとなります。
その5年前(2007年)は、善光寺本堂再建三百年で盛り上がりました。
だとすると、今年の開催にはどういう意味があるのでしょうか? もともとは、毎年行われてきた行事ですから、特に意味はなくてもいいのですが、意味がなくてこれだけ多くの人が動く祭りが復活できるはずはないと考えてしまうのです。
国では3年前から、各市町村ごと、歴史まちづくり法による「歴史的風致維持向上計画」の認定を進めていて、今後、長野市も認定を目指すことになりました。これには、建物ばかりでなく、伝統的な祭礼行事も含まれます。
それぞれの町にとって大事なのは、他にはない、その町らしさです。
いまの長野は、新幹線の金沢への延伸も見据え、民間でもそのことを急速に模索しようとしています。今年の屋台巡行の開催は、長野が門前町らしさを取り戻そうとすることに多くの人が共感し、参加しつつある、大きな時代の転換点を意味しているのかもしれません。
「門前暮らし体験ハウス」の体験プログラム(2012/7/11版)が掲載になりました。
たくさんのプログラムが用意されていることに驚かされます。これを企画できるナノグラフィカの人のつながりの広さは相当なものです。
門前町は町並みとしては歴史上これまでも存在してきましたが、「門前」という面的な広がりが、ここ数年ほど意識されるようになったことはないと思います。
たとえば、信濃毎日新聞のデータベースで、「善光寺門前」をキーワードに記事検索をしてみると、数年前までは、その記事の大半は大門町でのことで、一部、東町、後町や新田町あたりも含まれることがわかります。つまり、「門前」とは、圧倒的に善光寺表参道(中央通り)沿いを指すことが多かったのです。
これを変えたのが、ナノグラフィカであり、門前暮らしのすすめプロジェクトなのです。善光寺周辺のそれぞれの町で暮らし、活動している人の意識を「門前」というキーワードで結びつけることによって、新たな人もとけこみやすくし、地域の活力を生み出しています。
善光寺周辺の地名には、実は、「門前」という言葉はありませんし、これまでも存在したことはありません(たとえば、長野市門前*丁目、長野市門前*番地のように)。だから、門前の区域もあまり細かく線引きせずに活動できます。
歴史を生かしつつ、柔軟な発想で新たなことに取り組めるのも門前の魅力です。
最近、「小林さんは、ナノグラフィカの人なんですか?」と聞かれました。いえ、違いますが、縁あって、ここでブログを書かせていただいております。
善光寺表参道(中央通り)や昭和通りの新田町交差点付近に、こんな看板が設置されています。
表面は、先の交差点での直進や左折、右折の際にどこに向かうかが書いてあります。こちら善光寺本堂の絵(写真?)は、実際にはその裏面にあたり、右下には「国宝 善光寺」と書いてあります。
もともと、この裏面には何もなかったのですが、金属のむき出しでは味がないと考えたのでしょう。善光寺本堂の絵になったのは、数年前からと記憶しています。
この看板が設置された時、「国宝 善光寺」という書き方に、私はおや?と思いました。
善光寺本堂は、
昭和4年(1929)国宝保存法によって国宝の指定、
戦後は昭和28年(1953)文化財保護法によって国宝の指定を受けて、現在に至っています。
山門(三門とも書きます)や経蔵は重要文化財ですし、文化財に指定されていない建造物が数多く立ち並んでいます。善光寺がどこからどこまでかはあいまいで、仲見世や宿坊も、ご住職も、そこで暮らす人までも、地元の人にとってはまるごと善光寺さんといった感覚です。
善光寺本堂(さらに正しく言うと、本堂内の厨子一基も)が国宝なのであって、善光寺が国宝というのは正確ではないですね。
しかし「国宝 善光寺」という表現は、善光寺の存在感が国宝級だということから、すんなりと街になじんでしまっているのかもしれません。
南の門前の、かるかや山西光寺(北石堂町)境内入口にある「へび塚(大蛇の墓)」は、昔から厚い信仰を集める場所です。
お参りに行くと、卵がお供えされてありました。
どなたが、お供えされたのでしょう? この日はビニール袋に入って2個、鶏の卵がお供えされていました。蛇に卵を供えるのは、全国各地にある習慣です。
お線香の薫りも漂い、とても神聖です。
鶉(うずら)の卵がパックでお供えされていた日もあります。
門前町の入り口で、江戸時代、大蛇を見せ物にしたところ、その祟りがあり、その祟りを鎮めるために、この墓はつくられました。
大蛇は、旭山にいたと伝わります。旭山は門前からよく見える山で、門前暮らしをしていると毎日見る山ですが、門前から見て朝日がよく当たることから、この名が付いたのでしょう。
江戸時代の旭山は、善光寺の「お花山(おはなやま)」と言われ、善光寺の持ち物でした。だとすると、蛇も善光寺さん(生きた仏様)の一部だと言えましょう。
善光寺さんに対する卵のお供えともとらえることができる光景です。