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 銭湯は、まちの社交場です。今となっては意外な、こんな所にもかつて銭湯があったのだと知ると、まちの奥深さが見えてきます。
 
 かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。善光寺周辺から南の地域を紹介してきましたが、今回でひとまず最終回とします。今回は駅の近くの2か所を紹介します。
 
 まずは、北石堂町にあった「増屋浴場」です。昭和24年(1949)発行の『長野市とその周辺』という本には「ラヂウムの湯」、昭和42年(1967)の電話帳には「ラヂウム鉱泉」として載っています。

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 「増屋浴場(ラヂウムの湯、ラヂウム鉱泉)」は、今の北石堂交差点の北東角の駐車場になっている場所にありました。厳密に言うと、角には坂西医院という病院があり、その西隣り(山王小学校寄り)でした。

 もともとは増屋という旅館が坂西医院の北隣りにあって、その増屋が経営している銭湯だったのですが、旅館の方が先になくなってしまいました。昭和33年の地図にあった増屋旅館は、昭和42年の地図には載っていません。


 最後は、中御所にあった「白山の湯」です。

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 「白山の湯」は、長野駅にほど近い信越線の線路沿いにあり、列車からも見える場所にありました。東隣りは、2011年にできた「森と水バックパッカーズ」(旧長野プリンスホテル)です。

 白山の湯は2003年に営業をやめて、煙突は解体されましたが、現在でも建物は残されています。男湯、女湯と独特の書体で書かれた玄関も健在です。
 地元の人だけでなく、駅を利用する旅行客もここでひと風呂浴びて、次の目的地へと旅立っていたのでしょう。

 

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 10月14日(日)、私の住む問御所町、栽松院の境内で、初めての「しまんりょ お寺で蚤(のみ)の市」が開かれました。
 
 毎日お参りしているお寺の境内にお店が並ぶのは、とても新鮮でした。充実した出店者に、副住職ご夫妻の日頃の人脈の広さを感じました。

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 14日は、昭和通りから上、新田町交差点から北側は「軽トラ市」や「善光寺表参道秋祭り」のため、歩行者天国でした。栽松院は新田町交差点より南にありますので、お寺の前は歩行者天国ではなかったのですが、まちのにぎわいの広がりということでも、同じ日にされたのはとてもよかったのではないでしょうか。

 昭和通りは、その名のとおり昭和に開けたので、歴史的には古い道ではありません。また町の境界でもないのですが、4車線の通りは、このようなイベントの際、地域を南北に分断してしまう怖さも持っています。
 もともと(厳密には江戸時代初めに裾花川の流れが変わって以降)、栽松院、北石堂町のかるかや山西光寺も1つの善光寺門前の町並みの中にあるのですが、自動車の都合で門前と切り離されてしまうとしたら残念です。
 
 今でも、特に善光寺御開帳中には、多くの方々が長野駅から善光寺表参道を歩いて善光寺に向かいます。次回の平成27年(2015)の御開帳中に、門前町のそれぞれのお寺が開かれ、催しが行われていて、参拝者はそれぞれのお寺にもお参りしていく、そんなまちにできたら、嬉しいことです。

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 10月14日(日)10時~15時まで、私の住む問御所町、栽松院の境内で、「しまんりょ お寺で蚤(のみ)の市」が開かれます。
 当日は表参道や権堂で、多くの催しが行われています。あわせてお出かけください。

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 栽松院境内で、このような催しが開かれるのは初めてのことだそうです。

 ポスターの「お地蔵さんに手を合わせにきてね」がいいですね。

 善光寺から離れるほど、「門前度」が薄れてしまうのが残念に思っています。そこで、善光寺から離れても、お寺やお宮を核として人がつながりあい、「小さな門前」がいくつもできていけばいい。長野市、いやもっと広く信州・長野県が、そんな「小さな門前」の連合体をめざしていけばいいのではないかと、最近私は考えています。

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 銭湯は、まちの社交場です。今となっては意外な、こんな所にもかつて銭湯があったのだと知ると、まちの奥深さが見えてきます。

 かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。今回も、南の門前からです。

 まずは、問御所町にあった「千歳の湯」です。

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 千歳の湯があったのは、デパート「丸光」(後に、丸光そごう、長野そごう)の北側で、現在のTOiGO SBC棟の北側付近です。写真では、トラックが停まっている付近です。昭和24年(1949)4月に長野商工振興会が発行した『長野市とその周辺』には載っていませんので、その後にできたのでしょう。

 名前は千歳の湯ですが、千歳町(上千歳町)に立地していたわけではありません。(そういえば、明治時代に権堂にできた劇場「千歳座」も千歳町にあったわけではありません。)


 続いては、南千歳町にあった「黄金の湯」です。

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 黄金の湯は、しまんりょ小路と千歳町通りから入った場所にあり、現在は、パーキングポエムの中になってしまいました。駐車場なので正確な位置がわかりませんが、この写真の中央付近にあったと思われます。

 『南千歳町誌』(平成19年発行)には、昭和15、16年ごろの地図があり、そこに黄金の湯が載っています。南千歳町で生まれた太田廣さん(昭和2年生まれ)は、こう証言しています。

 「町の真ん中に『黄金の湯』という銭湯があり、ずいぶんにぎわっていたことを覚えています。釜に薪をくべる様子がおもしろくてじっと見ていたら、従業員にジロッとにらまれ、でも意外にやさしく『気をつけろよ』と声をかけられたこともありました。」(『南千歳町誌』100ページ)

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 銭湯は、まちの社交場です。今となっては意外な、こんな所にもかつて銭湯があったのだと知ると、まちの奥深さが見えてきます。

 かつてあった銭湯の跡地を、昭和30年代の地図をもとに訪ねてみるシリーズ。今回からは、南の門前に範囲を広げていきます。


 まずは、南県町にあった「大国の湯(だいこくのゆ)」です。

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 大国の湯は、現在の長野合同庁舎南庁舎前、この写真中央の駐車場になっている場所にありました。手前(南側)を流れるのは、八幡川です。写真には写っていませんが、写真右側の道路のさらに右(東側)には、信濃毎日新聞社の本社ビルがそびえています。

 大国の湯は、近くに大国主(おおくにぬし)神社があることから名づけられたのでしょう。南県町で生まれ育った私の父小林一郎は、よくこの銭湯を利用していたそうです。


 続いては、権堂町にあった「玉の湯」です。

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 玉の湯は、金刀毘羅通りの地蔵庵斜め向かい側にありました。現在の「ホテルやま」の2軒西どなりです。つまり、現在は「カラオケTIFFANY」と「居酒屋ちくまがわ」の間にあるビルの場所だったことになります。

 権堂町内では唯一の銭湯でしたが、田町の田毎の湯も、権堂と接した場所にありましたから、権堂に銭湯は、玉の湯と田毎の湯の2軒があったとも言えるでしょう。

 


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