長野市大字長野・西長野・南長野という範囲がどのように決まったか、前回はとりあげました。
長野市そのものは、市町村合併で面積を広げてきました。歴史の流れとしては、その傾向はまだ続いているように思えます。ところが、長野市内の長野や×長野と付く地名の範囲は、最近になって、狭くなってきているのをご存知でしょうか。
近いところでは、平成22年(2010)2月15日に、長野市大字西長野の一部が、長野市新諏訪一丁目、二丁目となりました。
新諏訪町は、もともと江戸時代は腰村、明治時代からは西長野町の一部でしたが、昭和11年(1936)西長野町から独立しました。しかし区としては分かれたものの、住所の表記上は、「長野市大字西長野新諏訪町」とはならず、「長野市大字西長野」のままでした。これは大字鶴賀の旧七瀬村において、昭和9年(1934)、七瀬町が区として独立しても、公式には大字鶴賀のままだったという例とも似ています。
新諏訪町の住民は、数年前、新諏訪という町名を公式にも使いたいという運動を始めました。3年ほど前これが実ったわけですが、長野市では新諏訪一丁目、二丁目を設ける「住居表示」を実施することにしました。こうなったことで、大字西長野新諏訪町ではなく、「新諏訪」だけになって、西長野の文字は消えてしまいました。新諏訪への改称は、最初は区としては、単に今のように長野市新諏訪とするのでなく、長野市大字西長野新諏訪町にするよう、市に要望していたそうです(『新諏訪町七十周年記念誌』)。
また、それを遡ること、15年。平成7年(1995)には、大字長野箱清水で「住居表示」が行われ、箱清水一~三丁目が誕生し、大字長野の範囲が狭くなりました。長野市大字長野箱清水がすべてなくなってしまったわけではなく、大峰山や旧蔵春閣の付近などには現在も大字長野箱清水が残っているのですが、平成21年(2009)4月1日には、その一部(展望道路北側の霊山寺など)も箱清水三丁目に入ることになりました。
長野というのは、もともと、とても狭い範囲でした。江戸時代には、箱清水や新諏訪も長野ではなかったわけです。元に戻ったと言えばそうです。しかし、明治時代に拡大し、長野市の核だった長野という地名の範囲が近年狭まっていくことはあまり知られていません。
長野市では「×丁目」とする住居表示をしだいに実施してきていますので、このままの流れでいくと、大字長野や大字×長野という範囲は将来的にはだんだん狭くなっていくでしょう。
長野という地名を将来にどう生かしていくか、足元の私たちが、議論をこれから尽くさなければいけないと思います。
長野市の大字(おおあざ)として、大字長野に接して、大字西長野と大字南長野があります。たとえば、西之門町は長野市大字長野で、西長野町は長野市大字西長野、西後町は長野市大字南長野です。
どうして、「西長野」と「南長野」はあるのに、「北長野」や「東長野」はないのでしょうか。史料はないのですが、歴史の流れの中から考えてみましょう。
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まず、大字長野とはどのように決まったか見ていきます。
大字長野は、もともと江戸時代には長野村や箱清水村だった所です。明治7年に、長野村と北側の箱清水村とは合併し、長野町になりました。明治22年からは長野町(明治30年からは長野市)大字長野となっています。
続いて、大字西長野です。
大字西長野は、もともと江戸時代は腰(こし)村だった所で、明治14年に腰村が西長野町に改称したことに始まります。明治22年に長野町の一部となり、以来、長野町(明治30年からは長野市)大字西長野になりました。
続いて、大字南長野です。
大字南長野は、もともと江戸時代には妻科(つましな)村だった所で、明治14年に妻科村が南長野町に改称したことに始まります。明治22年に長野町の一部となり、以来、長野町(明治30年からは長野市)大字南長野になりました。
現在では単に南長野というと、南長野運動公園のある篠ノ井方面をイメージしてしまいがちですが、地名としての南長野は、犀川の南にはありません。今でも、南長野の南端は、長野駅善光寺口駅前周辺までです。妻科というと長野県庁から西側をイメージしますが、もともと、今の長野駅前の場所も江戸時代は妻科村だったのです。
西長野も、南長野も、長野町に隣接してもともとあった古い村名(腰村、妻科村)を長野町の発展に合わせて改称してしまった例です。
では、同様に、北長野町や東長野町と改称される所はなぜなかったのでしょうか。
北長野にふさわしい場所は、本来、長野町北側の箱清水だったはずです。しかし、箱清水村は早くも明治7年に長野村と合併しました。つまり、いわば長野の一部に取り込まれて、消えてしまっていたのです。もしも、最初から長野村と合併していなければ、腰村や妻科村のように、長野市大字北長野になっていたかもしれません。
合併が早かった理由は、箱清水村は長野村と隣接し、しかももとは同じ善光寺領だった(善光寺が治めていた)からでしょう。
東長野にふさわしい場所は、長野町の東側の三輪村、あるいは今の大字鶴賀にあたる鶴賀町(もと、権堂村、問御所村、七瀬村)だったはずです。
腰村も妻科村も、明治の時代、長野町と町並みは一体化してきていました。しかし、長野町との町並みの連続性からすると、三輪村は該当しないと判断されたのでしょう。三輪村が長野市と合併したのは、遅れて、大正12年のことでした。
また鶴賀は明治9年に新しくつけられた地名で、最初は鶴賀村でした。長野町と町並みは連続していますが、新しくつけられたばかりの地名でしたので、明治18年にそのまま鶴賀町となり、あえて××長野に改称する必要性はなかったのでしょう。
結論としては、明治時代の地名改称の動きの中で、北長野町や東長野町と改称する古い村名がなかったからということになります。
それにしても、古い村の名前が今に伝えられていないのは、寂しいことに思えます。特に、「腰」という地名は完全に使われていないので、知る人はもうほとんどいませんね。
<追記>
北長野というと、信越線の駅名に北長野があります。けれども、これは付近の地名からとったのではなく、長野駅の北だから北長野と名づけられました(実際には北東ですが)。もとは吉田駅だったのですが、昭和32年に北長野駅に改称しました。北長野駅へと延びる北長野通りも、付近の地名とは特に関係ありません。
東長野というと、東長野病院が若槻(上野)にありますが、付近の地名とは特に関係ありません。
エヌジンに「長野市の地名の謎~七瀬よ、再び~」という記事を書きました。
こちら門前暮らしのすすめでも、これから地名について書いていこうと思います。
西之門には、上西之門町(かみにしのもんちょう)と西之門町という2つの町があります。一方、東はというと、東之門には上東之門はなくて、東之門町1つですね。これはどういうことなのでしょうか。
西之門は、もともと1つでしたが、江戸時代の中期には、上西之門町と下西之門町(しもにしのもんちょう)の2つに分かれました(『長野県地名大辞典』)。この下西之門町というのが、現在の西之門町にあたります。
また、西之門の南には、西町(にしまち)があります。西町も、江戸時代に、上西町と下西町に分かれました。現在、住所を書く時にはどちらも西町としますが、区としては西町上(にしまちかみ)と、西町南に分かれたままです。
それに対して、東町も、東之門町と同様、東町上や東町南というふうには分かれていないのです。
西側で町がたくさんに分かれている理由は定かでないのですが、西側の方が東側よりも繁華街として発展していたからではないかと私は考えています。
善光寺町は、裾花川の谷口集落として発展してきました。西側の山中の村々の人々が善光寺町に買い物に来たり、行き来が盛んだったことから、西の方が、町の入口として、商売をする上で、条件もよかったものと思います。その名残りが、現在も続く桜枝町の商店街です。
それにしても、江戸時代にすでに現在の町のような南北の区分けが決まってしまって、以来そのままなのですから驚きです。
善光寺七小路について、引き続き、私の考えを書いていきます。
善光寺七小路のうち、江戸時代の「桜小路」は、今の桜枝町そのもののことを指していて、しかも小路とはいえ、通りの幅がかなり広いです。これはどうしたことなのでしょうか?
桜小路は、少なくとも室町時代からある古い地名です。しかも、道そのものは平安時代からあったと推定されます(参照:『角川日本地名大辞典』)。平安時代だから確かなことは言えませんが、最初から広い道があったとは思えません。
また、時代とともに、小路の意味も変わってきている可能性があります。
小路(小さい道)に対して、大きい道はどこかというと、もともと善光寺界隈では今の善光寺参道(中央通り)のことでしょう。それと比較したら小さいので、小路と言うのに違和感がなかった時代があったのかもしれません。
明治7年に桜小路は、桜枝町に町名を変更しますが、既に小路と言うのには、抵抗があったからでしょう。
最近、新たに路地・小路に名称をつけようということが積極的に行われるようになりましたが、小路が一部の人にブームになってきたのは近年のことです。近代になって、小路はどちらかというと、否定的な響きを持ってきました。
広い4車線の国道406号線が大門町を横切ることになった時、「下堀小路」は大事な道だから残そうという動きは起りませんでした。結果として、下堀小路は406号線の一部となって、消滅してしまいました。
小路には、その時代ごとの人々の価値観が強く反映されています。道そのものはあっても、桜小路の名はなくなり、下堀小路は失われてしまいました。羅漢小路も、江戸時代とは違う道のことを指すことになりました。
最近は小路に関心のある人が増えていますが、小路が積極的に評価されるまでにはまだ全く至っていないと言えます。これからも善光寺七小路は地元の人に愛され、残り続けてほしいと思います。
最近、1166バックパッカーズのブログの更新頻度が高く、内容も地元の門前の文化的な話題が多く、興味をそそられます。
1月12日は、「善光寺七小路」についてでした。
リンク:善光寺七小路って?
善光寺七小路には、桜小路、羅漢小路、法然小路、上堀小路、下堀小路、花小路(花屋小路とも)、虎小路があります。特に順番は決まっていませんが、江戸時代に選ばれました。
「他にも小路は沢山あるわけなんですが、どうしてこの7つが善光寺七小路と呼ばれるようになったんでしょう」とブログには書かれていました。
残念ながら、それを裏付ける文献はありません。そこで、私の考えを書きたいと思います。
まず、桜小路というのは、桜枝町の江戸時代の呼び方で、町そのものが桜小路と呼ばれていました。それほどの有名な所なので、桜小路は絶対に外せないことになります。
その桜小路の東(善光寺寄り)につながっているのが、羅漢小路です。そこで羅漢小路も七小路に入ったのかもしれません。
残りの5つの小路に共通するのは、幹線道路である北国街道と接していることです。
法然小路と虎小路は、南北の小路です。それぞれ別々の場所にありますが、両方ともに、北国街道と接しています。今の中央通りおよび、今の善光寺交差点を東に折れ、西宮神社前を北に折れ、伊勢町へ出て、東に折れる道が北国街道でした。ですから、この2つの小路は大事な小路と位置づけられてもおかしくありません。東町通りは、小路とは呼べないので、除外されたのでしょう。
さらに、上堀小路と下堀小路は、北国街道(中央通り)沿いの大門町東側でも善光寺に近い小路です。選ばれるのが自然です。
さて、そうなると、大門町西側は、今の門前農館前から西方寺へつながる「広小路」ではなく、なぜ、その南にある花小路の方が七小路に選ばれたのでしょうか?
また、今の西宮神社(江戸時代はこの場所にはなかった)から東に向かう小路は、なぜ含まれていないのかも、私にはまだ依然、謎として残っています。