往生寺は、善光寺の北西の山の中腹にある名刹です。
善光寺表参道にある西光寺とともに、約800年前の昔、九州博多からやってきた刈萱上人(苅萱上人)と石堂丸(石童丸)ゆかりの寺として知られています。かつて善光寺参りの旅人の多くは善光寺の後、往生寺にあわせて参拝するのがならわしでした。その親子の物語は、今も「絵解き」で聞くことができます。
その往生寺のある場所の現在の町名(地区名)は、往生地です。ともに読み方は「おうじょうじ」なのですが、町名は「地」になっています。往生寺は、刈萱上人の往生した地なので、往生地だと考えられています。
ところで、往生寺周辺には、古い小字(こあざ)がいくつもあります。
往生地
往生地前
往生地西
北往生寺平
南往生寺平
往生地は、大字西長野と大字長野にまたがっています。つまり、江戸時代からすでに腰村と長野村にまたがっていたのです。大字西長野の範囲には、往生地、往生地前、往生地西という地名があるのに対し、大字長野の範囲には、北往生寺平、往生寺平という地名があります。
地名はすべて「地」かと思いきや、往生寺平という地名ではなぜか「寺」が使われています。地名の場合は「地」ですとは、単純に言えないのです。
ともかく、往生地、往生地前、往生地西、北往生寺平、南往生寺平と、5つも往生のつく地名のあるところに、往生寺という寺の善光寺周辺での歴史的な役割の大きさが感じられます。
門前暮らしをしているのに、往生寺へ行ったことのない方はいらっしゃいませんか? ぜひ、往生寺へ行って、眼下に広がる門前町を眺めてみましょう。
以前に、077 門前周辺の地名の謎~長野とはどこなのか~という記事で、私は、「上長野、下長野、西長野、袖長野、中長野という小字(こあざ)名が信州大学教育学部や長門町付近にあり、現在でも土地の登記には使用されています。ここが、長野発祥の地だということになります」と書きました。
では具体的に、それはどこなのでしょうか。ふつうの地図上には掲載されていません。ネットで調べることもできません。そこで、県立長野図書館で、長野県地名研究所が作成した「字境図」で確認してみました。
<上長野>
花咲町にある公務員宿舎(元裁判所)の立ち並ぶ付近。
<下長野>
旭町にある信濃教育会館、長野旭郵便局、太平堂、および長門町の市立長野図書館の北側付近。
<西長野>
西長野町にある元信州大学教育学部付属小学校の校舎のあったを場所を中心とする付近。現在は教育学部北西校舎がある。(西長野といっても、現在の大字西長野のごく一部のこと)
<袖長野>
西長野町にある教育学部の本館、図書館の付近。キャンパスの主要な校舎が立ち並ぶ一帯がほぼ袖長野ととらえてよい。一部、国道406号線の南側も含まれる。
<中長野>
西長野町の、西長野と袖長野に挟まれた狭い地域。教育学部体育館の付近。
こうしてみると、下長野、袖長野、中長野、西長野は隣り合った、ひと続きの地域で、上長野だけは、立町と桜枝町を間に挟んで離れた場所にあることになります。
長野という場所は、本来は、善光寺町と接した、近郊の農地でした。ところが、その地名が、長野村、長野町、長野市、長野県へと拡大をとげていったのです。現在そこが大学や教育関係機関、公務員アパートなどになっているのは、農地だったため、明治時代にまとまった土地が確保できたことによるものです。
長野商工会議所に長野市が協力し、ご当地検定「長野検定(仮称)」の実施を計画していることが明らかになりました。
リンク: 「ご当地検定」を検討中の長野市(小林玲子の善光寺表参道日記)
検定問題のためのテキストもつくられるようです。
歴史はその中でも重要な分野を占めることになるはずですが、これまでにこれ1冊読めば長野市の歴史が学べるという本はなかなかありませんでした。
私の祖父・小林計一郎が昭和54年に書いた『わが町の歴史 長野』(文一総合出版)は、その意味でも、1人の歴史家が原始時代から現代まで280ページ程で書いた、読みやすくてとても貴重な本です。
残念ながら、絶版です。八十二文化財団のライブラリー82では貸し出しもしていますが、県立長野図書館では書庫から出していただき、館内でお読みいただくしかありません。長野市立南部図書館にもありますが、長野市立長野図書館には在庫がありません。
出版が昭和54年ですから、現在の長野市の戸隠、鬼無里などは含まれていません。
しかし、 善光寺町と松代で江戸時代の定期市(いち)が毎月同じ回数開かれていたことが書かれていたりと、善光寺門前町だけを勉強するにも、周辺地域の中でとらえることができるので、たいへん便利です。
善光寺門前町はもちろん、松代も、その他の地区も、周辺との人々や物資の行き来を通して発展してきました。狭い区域でまちづくりを考えることも多い今、長野市域でのご当地検定は、広い視野に立って学ぶことの大切さを感じる機会になることと思います。
善光寺門前町の西之門町、東之門町、西町、東町は、1つの道を中心に、道の両脇に店や家が立ち並ぶ構造をしています。たとえば、ナノグラフィカの向かいには、三河屋洋傘店があって、どちらも同じ西之門町です。
当たり前の話をしているようですが、実はこのことは、門前町でも特に古くからある町の痕跡ではないかということに気がつきました。
中央通り(善光寺表参道)を例に見ていくと、大門町は道の両側が大門町です。大門町は中世から栄えていたと考えられる古い町です。その南になると、後町は東後町と西後町に分かれてはいますが、どうやら昔は道を挟んで1つの後町だった時代があったのではないかと推測できます。
ところが、問御所町になると、道の東側だけになってしまいます。新田町は西側だけでなく一部は東側もあるのですが、主に中央通りの西側の町と言えます。
新町は、北島書店とその向かい側のマンションはともに新町ですが、旧シンカイ金物店の交差点から先は、北側だけが新町になっていて、シンカイの場所は、三輪です。
道を挟んで別々の町というのは、道が町の境界線になっているからですが、町の境界が定められた時(江戸時代の初め以前?)、まだそこには人家が少なかったからなのでしょう。
古くは中世に、1つの道を挟んでいた人たちが結束することになり、それぞれの町の単位ができてきたのではないか。それが変わることなく現代まで受け継がれているのではないか。門前町の地名からそれが読み取れます。
長野という地名は、そもそも何からつけられたのでしょうか?
野とは平地や野原のことではなく、傾斜地を意味しています。長野は、長い傾斜地のことで、善光寺近くの南西側にあった自然の地形がルーツの地名です。
上長野、下長野、西長野、袖長野、中長野という小字(こあざ)名が信州大学教育学部や長門町付近にあり、現在でも土地の登記には使用されています。ここが、長野発祥の地だということになります。
また、長門町は、江戸時代には天神宮町(てんじんみやまち)という名前でしたが、俗に長野町と言われていました。明治7年、天神宮町は長門町に改称し、長野町という呼び方もなくなりました。
江戸時代には、長野は村名になり、現在の大字長野(箱清水を除く)は、長野村でした。しかし実際には、善光寺町というのがふつうで、長野村という呼び方は一般的ではありませんでした。
ところで、信州大学教育学部は、大字長野にはありません。大字西長野、江戸時代には腰村だった場所です。つまり、本来の長野という地域は、江戸時代に長野村(善光寺町)と腰村にまたがっている状態でした。しかも、長野村は善光寺領で、腰村は松代藩領でしたから、長野は2つの領地にまたがっていたのです。
長野市は、1つの支配者のもとで町の名前を明確に掲げて発展をとげてきた城下町とは違うことを、この長野という地名が示しています。それは、明治になっても、都市の発展の上で影響してきたのではないかと私は考えています。
長野市は、1つの村の単位が発展したわけでもなく、誰かが名づけたわけでもなく、元々長野がどこにあるかも極めてあいまいであったため、「我こそが長野の人だ」という意識が市民には生まれにくい状態になってきたのではないかと思います。
しかし、もしかしたら、我こそが長野の人だという昔からの住民の意識が高くない分、最近は新しい人でも入りやすいという効果があるのかもしれませんよ。(このあたりになると、歴史的にはうまく説明できませんが・・・)