2014年度末、新幹線が富山県を通り、石川県金沢まで延伸されます。将来は福井県にも延びる予定です。
引き続き、善光寺周辺と北陸とのつながりを考えてみましょう。
江戸時代には、参勤交代といって、諸大名は、地元と江戸とを定期的に行き来しなければなりませんでした。
善光寺門前は、今の善光寺表参道・中央通りを通り、そこから横町、岩石町、新町を通って、今の相ノ木通りへと続く道が北国街道で、参勤交代の大名行列が通りました。
なかでも有名なのは、百万石の大名、加賀藩(城下町は今の石川県金沢市)の前田家で、2,500人もの大行列だったと伝えられています。
その他、高田藩(新潟県上越市)、富山藩(富山県富山市)、大聖寺藩(石川県加賀市)の大名行列も、善光寺門前を通って北陸と江戸とを行き来しました。
まさに、今の新潟県上越地方、富山県、石川県の人が江戸に出るのに、善光寺門前は、ルートが変わることもあったようですが、重要な街道として位置づけられていました。
なお、今の福井県の大名は、そのまま南下して中山道などに出ていたため、善光寺門前は通っていなかったようです。
江戸から北陸までは2週間ほどもかかる長旅でした。善光寺門前は、自然の中、峠道を越えて、旅をしていた江戸時代の人々の目に、城下町でもないのに人が集まっている特別な町として映ったことでしょう。
2014年度末、新幹線が富山県を通り、石川県金沢まで延伸されます。将来は福井県にも延びる予定です。
善光寺周辺と北陸とのつながりを考えてみましょう。
善光寺は無宗派ですが、天台宗と浄土宗のお寺でお守りしています。また善光寺の門前周辺は、浄土宗の他、曹洞宗や浄土真宗のお寺が多くあります。北陸といえば、まさに浄土真宗や曹洞宗のお寺が多い地域です。
ここでは曹洞宗について見ていきましょう。
善光寺の近くには、新町の地蔵庵、田町の普済(ふさい)寺、権堂町の地蔵庵、問御所町の栽松(さいしょう)院、立町の耕雲(こううん)庵、横沢町の嶺雲(れいうん)庵、往生地の宗栄(そうえい)寺、三輪8丁目の大定(だいじょう)院や時丸(じがん)寺、妻科の善松(ぜんしょう)寺など、曹洞宗の寺はたくさんあります。どの宗派の寺より数が多いでしょう。江戸時代から先祖が善光寺の近くで暮らしてきたらしい我が家小林家も、曹洞宗の寺の檀家です。
曹洞宗の大本山は、福井県にある永平寺です。また、新設される新幹線の新高岡駅近くにある曹洞宗の寺、瑞龍(ずいりゅう)寺(富山県高岡市)は、仏殿・法堂・山門が国宝に指定されている名刹です。
曹洞宗の寺は全国に9つの管区に分かれていますが、福井、石川、富山、新潟、長野の各県は北信越管区に属します。その「北信越管区教化センター」というものが、実は長野市にあるのです。長野市吉田の永祥寺内にあります。長野市は、曹洞宗にとって、北陸を含めた地域の拠点になっているのです。以前には、尼僧を育てる学校もあり、善光寺周辺の庵主(あんじょ)さんの多くがそこで学んだそうです。
善光寺周辺で曹洞宗が普及したのも、ここが昔から北陸との結びつきが強かったからでしょう。
善光寺そのものは、浄土宗や天台宗の寺でお守りしているため、直接曹洞宗とは関係がありませんが、禅宗である曹洞宗も、門前町の文化として深く根付きました。長野県の学校で、掃除が大事にされていることなど、学校教育にも曹洞宗の影響が見られます。私の母校の小学校では、障害児学級は「三心(さんしん)」と呼ばれていました。三心は、曹洞宗の開祖道元禅師の教えです。
新幹線延伸を機に、北陸との歴史的な文化のつながりを思い起こし、北陸と交流を深めていくのも大事なことでしょう。
このほど、富士山の世界遺産登録が決まりました。
世界遺産には、文化遺産と自然遺産、複合遺産の分類があります(複合遺産は日本にはありません)。富士山は、最初は自然遺産として登録しようとしましたが、断念し、文化遺産として登録しようということになりました。
富士山の文化とは何なのか、専門家が議論を重ねて行き着いたのは、「信仰」と「芸術」でした。正確には、富士山は、「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という名前で世界遺産登録されました。信仰なくして、富士山の世界遺産登録は、あり得なかったのです。
信仰とは何かの定義は難しいでしょうが、日本には無数の神社や寺院があります。その中で、富士山、浅間神社にお参りに行きたいと思うかということではないでしょうか。しかし、富士山はお参りに行くより、現在、自然のダイナミックな美しさの対象として見られていることがほとんどだと思います。
さて、最近の日本人は信仰心が薄れたとはいえ、善光寺には、お参りしたいからこそ訪れる人たちはまだまだ多いです。富士山以外の世界遺産、たとえば、京都や奈良、日光や熊野などのお寺や神社と比較しても、善光寺は圧倒的にお参りに行きたい人が多い場所です。
私は以前、長野駅から善光寺入口までの案内ガイドをしてきましたが、善光寺に対する熱い思いを持った方々と多く出会い、こちらが学ばされました。
決して富士山のようにダイナミックな形はないけれど、それに劣らない多くの人たちの思いによって、支えられている。そういう寺の門前に、私たちは暮らしています。
善光寺表参道の大門町を通りかかると、白い工事シートで覆われ、解体業者の名前が掲示がされた建物がありました。藤屋(The Fujiya Gohonjin)南側の、元「茶房 夢屋」の建物です。あんみつやソフトクリームのお店で、善光寺大門のバス停前という好立地もあり、観光客の多い日には大勢の人でにぎわっていました。
夢屋のホームページがまだ残っていました(2013年6月現在)。写真もありました。こちら
人気のお店で、いろいろなブログでも紹介されています。「夢屋 善光寺」「夢屋 長野市」などで検索してみてください。
蔵造りの町屋なので、おそらく藤屋と同じ大正時代か、昭和の初めに建てられたのでしょう。
しかし、もとから飲食店だったわけではありません。
大正14年(1925)発行の地図によれば、ここは「北沢足袋店」となっています。
また、昭和33年(1958)発行の地図には「蛇の目ミシン」、昭和45年(1970)には、「電音」と書かれていて、様々に業種を変えて、今に至っていることがわかります。
市民が日用品の買い物をする色合いがしだいに薄れ、観光のまちへ。移り変わる大門町を見続けてきた建物でした。
5月27日(月)、長野放送NBS月曜スペシャルで、高田瞽女(ごぜ)についての放送がありました。
高田瞽女(ごぜ)は、高田(新潟県上越市)を本拠地とし、三味線を弾き唄い、村々を旅をしながら信州へも足をのばしていた盲目の女性たちです。昭和40年代に、娯楽がテレビなどに移り、瞽女の文化も途絶えました。
その瞽女(ごぜ)さんの一人が大事にしていたという、手のひらに乗るほどの大きさの置物が、番組の中で紹介されていました。善光寺の近くで買ったそうです。番組では解説されませんでしたが、私はそれが、刈萱道心(かるかやどうしん)と石童丸(いしどうまる)親子の置物であることに気づきました。そうです、刈萱道心と石童丸といえば、まさしく善光寺の近く、かるかや山西光寺と往生寺に伝えられている伝説です。
なぜ、その瞽女さんは、刈萱道心と石童丸の置物を大事にしていたのだろう? そう考えていたら、こんなことに思いあたりました。
刈萱道心と石童丸は、九州の博多から、はるばる信州の地まで旅をしてきた旅人でした。また、刈萱道心と石童丸は子弟で、本当は親子でありながら、刈萱道心は出家した身でしたので、石童丸に自分が父親であることを名乗ることができなかったのです。瞽女にも、子弟関係があり、親と別れて入門してくる厳しい世界でした。
もしかしたら、その瞽女さんは刈萱道心と石童丸親子の生き方に深く共感するものがあったのかもしれません。高田瞽女と、善光寺の門前町が私の中でつながりました。
忘れられがちですが、善光寺に伝わる話といえば刈萱道心と石童丸親子だということを、地元長野で大切な文化だととらえていく必要があると再認識しました。