長野市立後町小学校の閉校式が2013年3月20日に行われました。
正式には年度末の3月31日、この日が後町小学校最後の日でした。
有志の呼びかけにより、3月31日午後3時、校庭に、子ども、保護者、教師、卒業生など約50人が集まりました。私も一地域住民として行きました。
ちょうどその時間、それまでは小降りだった雨が強くなりました。涙雨とは、まさにこのことです。
校舎に向かって、全員で校歌を歌いました。私は、卒業生ではないので歌詞を知らず歌えませんでしたが、このように愛されている学校が今日限りでなくなることが、まだ信じられない思いでした。
最後は、校門を出て、道路から学校に向かって、全員で礼。「137年間、ありがとうございました!」の言葉で締めくくりました。
今この場所にいない、多くの卒業生や学校にかかわった人たち。その人たちがあって、今がある。その人々の思いも代表して、最後の人たちがお礼を言う、その姿に感激しました。とても厳かな、後町小学校最後の日でした。
善光寺表参道(中央通り)は、昭和通りと交わる新田町交差点を境に、北(善光寺側)が市道、南(長野駅側)が県道になっています。歩道も、北が石畳敷、南がタイル敷になっています。
近年では、昭和通りから北側だけで歩行者天国が行われることもあり、昭和通りは町全体を南北に分けているかのようです。
ところが、この昭和通りは、その名の通り、できたのは昭和になってからです。この昭和通りは、町と町の境界でもありません。では、ここに交差点ができた理由は何でしょうか。
もともと、今の新田町交差点から東には、「菊屋新道」という細い道がありましたが、今の昭和通りの歩道より狭いほどだったそうです。それが広くなったきっかけは、太平洋戦争末期に空襲の被害を避けるための建物の強制撤去でした。
また、新田町交差点から西は、県庁の南から県町通りまで延びていた「大正町」という通りを、昭和10年(1935)に中央通りまで延長したものです。
新しく開けた新田町交差点には、昭和29年(1954)には長野県で初の信号機が設置され、昭和30年代にはデパートも出店し、長野市で一番にぎわった時期がありました。
善光寺への石畳敷が、現在、昭和通りの新田町交差点から始まっていることは、歴史的には、実は特に深い意味はありません。その南には、善光寺とのゆかりの深い、かるかや山西光寺があること、門前町はもともと昭和通りで分断されていなかったことが忘れられないでほしいと思います。
1月1日時点の公示地価が発表されました。
長野県で最も住宅地で価格が高かったのは、今年も
「長野市大字南長野字本郷207-1」でした。南長野本郷と言われても、なかなかピンとくる人はいませんよね。一般には、ここは妻科と言われています。妻科神社近所やその西側が本郷で、有名なお店では味噌の「井上醸造」も本郷にあります。
本郷(ほんごう)とは、江戸時代の村にはよくあった地名です。村の中でも中心地で、古くから開けた地だったのでしょう。
「大字西長野字本郷」(西長野本郷)という地名もあります。桜枝町の通りを西(新諏訪方面)に向かって、西長野に入ると、道路の右側(北側)の山手にかけてが本郷です。ここには、浄土宗西光寺があります。
そして、本郷で一番多くの人になじみがあるのは、三輪にある長野電鉄の本郷駅ではないでしょうか。三輪では住居表示が行われ、三輪~丁目となったため、地図の上からもともとあった本郷という地名はなくなっていますが、現在でも、住民の生活単位として本郷地区は存在しています。
このように、善光寺門前周辺には3か所も別々の本郷があります。
ところで、本郷といえば、同じ長野県内でもJR飯田線に伊那本郷駅があります。伊那が付くからには後からできたのかと思いきや、調べてみると長野電鉄本郷駅の方が若干後でした。
伊那本郷駅(伊那電車軌道) 1918年(大正7年)開業
本郷駅(長野電気鉄道) 1926年(大正15年)開業
先に伊那本郷が本郷駅としていたなら、同じ県内ですので、長野電気鉄道(長野電鉄)はただの本郷という駅名にならなかったかもしれません。
今年の芸術・文化によるコミュニティ創造事業・演劇「S高原から」の上演が終わりました。関係者の皆様、たいへんお疲れさまでした。
今回も会場となったのは、魅力的な建物「城山公民館別館 旧蔵春閣」でした。
この建物の所在地は、「長野市大字長野箱清水2462番地」です。地区としては、箱清水なのです。
ところが、城山公民館(本館)は、「長野市大字長野東之門町2462番地」です。そう、こちらは東之門町なのです。
番地は同じでも、なぜか本館は東之門町、旧蔵春閣は箱清水で、地区が分かれています。
また、箱清水は北側の山手を除き、×丁目となっているのに、この旧蔵春閣は住居表示が実施されない、番地のみの、独立した場所になっています。
そうなった経緯を私はまだ未調査なのですが、地区があやふやの例外的な場所に、この旧蔵春閣が立地しているのは、興味深いと思います。
確かに地域にありながら、日常のコミュニティとは独立した不思議な異空間が、旧蔵春閣であり、そこで、日常から非日常へといざなってくれる演劇が繰り広げられているのです。また、ここは、まちを見下ろす高台にあり、文化的にも長野のシンボル的な場所です。
建物のよさ以外でも、旧蔵春閣で演劇を続けることには大きな意義があると思います。
現在、善光寺の周辺に、ずばり「善光寺」という地名はありません。善光寺のある場所は、元善町(もとよしちょう)です。
昔は、善光寺町のことを通称、善光寺とも言っていましたが、現在では善光寺を町の呼び名として言うことは聞かれなくなりました。
ところが、「善光寺下」という長野電鉄の駅があり、この駅周辺のことは「善光寺下」とよく言います。公式に善光寺下という地名はなく、正しくは三輪になるのですが、善光寺下という駅名は周囲の呼び名にまで影響を与えています。
「Book&Cafe ひふみよ」は善光寺下にあると表記していますし、マンション「サーパス善光寺下」「アルファステイツ善光寺下」、「ゲオ善光寺下店」、「ローソン長野善光寺下」、「セブンイレブン善光寺下店」など、善光寺下は善光寺の許可なく自由に使われています。
以前、長野大通りにあるフィットネスクラブの風呂が「善光寺下温泉」という看板を掲げていたこともありました。
長野電鉄の善光寺下駅ができたのは、1926年(大正15年)のことでした。当時もし「淀ケ橋駅」など別の駅名がつけられていたら、現在このように善光寺下という呼び方が広く使われることもなかったでしょう。
<追記>
「善光寺下」が使われるのは、善光寺下駅から徒歩5分程度の範囲かと思っていましたが、柳町に「イツモレンタカー善光寺下店」というのがあることがわかりました。
山梨県甲府市の甲斐善光寺のある場所は、地名そのものが、ずばり善光寺です。