大門町は江戸時代、善光寺宿(ぜんこうじしゅく)と呼ばれる
北国街道の宿場でした。宿場というのは、旅人が泊まったり、
馬の乗り継ぎなどをしたりした場所で、宿駅とも言われます。
では、北国街道で善光寺宿の次の宿場はどこかというと、
南は丹波島宿(たんばじましゅく)で、
北は新町宿(あらまちしゅく)でした。
丹波島は、今は「丹波島橋」として、市民の誰もが知っている
地名です。昔は橋はなく、渡し場がありました。宿場は、橋の
南西にあり、その名も丹波島という地名が残っています。
新町は、地名がないので、現在ほとんど知る人はいないの
ですが、今の若槻地区にありました。
明治21年(1888)、鉄道が善光寺平に初めて通った時、
善光寺のある長野の町の入口として設けられたのが、長野駅
(停車場)でした。長野駅は、旧善光寺宿を引き継ぐ意味も
あったわけです。
ところが、長野駅の隣りはというと、
南は篠ノ井駅、北は豊野駅でした。
当初はまだ、安茂里駅はおろか、川中島駅もなく、
吉田駅(今の北長野駅)もありませんでした。
丹波島も、新町も完全に鉄道の路線からは無視されてしまい
ました。本当なら、それぞれに最寄りの駅が開設されても
おかしくないはずなのになぜでしょう。
私が注目しているのは、次の2点です。
(1)遠距離の輸送を目的に線路が敷かれたからではないか
今の新幹線が、かつての特急あさまの停車駅だった篠ノ井や
戸倉に駅をつくらなかったように、丹波島や新町は近すぎる
として、駅が設けられなかったのではないか。
(2)川や勾配を避けて線路が敷かれたからではないか
丹波島の渡しに橋を架けることが当時は難しかった
からではないか(裾花川が合流する地点は、水量も多い)。
牟礼まで行くのに、峠を越えるルートを避け、豊野を
経由することとし、長野・豊野をなるべく直線で結ぼうと
したからではないか。
よく、宿場がさびれるという理由で、鉄道を通すことに
地元の人が反対したからだと説明がされることがあります。
ところが、長野を始め全国のほとんどの地で、その類いの
記録は実際には見当たらないそうです。
たとえもし鉄道反対の声があったとしても、鉄道は
もっと大きな国の力をもって建設されていたのだと思います。
門前町の昔の暮らしを知るなら、この1冊という本を紹介します。
『「善光寺町」の民俗』
(長野市誌民俗調査報告書 第3集)
長野市誌編さん委員会民俗部会編
平成7年、長野市発行、A5判、185頁
研究成果がまとめられた本で、非売品です。長野市立・
県立図書館でご覧ください。
民俗というと難しそうですが、書かれていることは、
明治の終わりから昭和の初めに生まれた方から聞き取りを
した、この町の生活の一部始終です。
商店、宿坊、旅館、祭り、季節の過ごし方、食事、子ども
たち、・・・・。様々なことが書かれています。
たとえば、西町で大正の後期に生まれたある人は、
それぞれのマチ(民俗学ではカタカナを使います)にこんな
印象を持っていました。(33〜34ページ)
横沢町・・・職人のマチ
桜枝町・・・麻屋のマチ
西町・・・・古着屋のマチ
伊勢町・・・商人のマチ
東町・・・・問屋のマチ
大門町・・・昔からの商売のマチ
善光寺の古いものというと、建物や仏像に目が行きますが、
足元の参道に敷き詰められた「敷石」も大事な遺産です。
いまの本堂の完成(1707年)の数年後、参道から北西の
方角に見える郷路山(ごうろやま)の石からつくられました。
1997年には長野市の文化財に指定されました。
本堂前(山門から北)の敷石は、西長野(注:北石堂では
ない)にある西光寺の単求(せんぐ)という人が、1713年
に寄進したものです。
続いて、善光寺境内入口(善光寺交差点)から山門までの
敷石は、桜枝町に暮らしていた大竹屋平兵衛(おおたけや
へいべい)という人が寄進し、1714年に完成しました。
その善光寺境内入口から山門までの敷石の枚数は7,777枚
あると言われています。
平兵衛は、江戸で石屋をしていた人でしたが、それにしても
なぜわざわざ善光寺に敷石を寄進したのでしょう。それは、
こんなふうに伝えられています。
平兵衛は我が子を盗賊と間違えて殺してしまったのです。
そこで店をたたみ、夫婦で巡礼の旅に出て、たどりついたのが、
善光寺でした。桜小路(いまの桜枝町)に住み、善光寺にお参り
していました。しかし、参道がぬかるんでいたため、何とか
できないか考え、石屋としての知識を生かし、平兵衛は大金を
出して、敷石を善光寺に寄進したのでした。
以来、約300年がたちますが、いったいどれだけ多くの
人がこの石の上を歩いたことでしょう。この敷石のおかげで
古い建物も映えています。
長野市では、参道に平行する宿坊が立ち並ぶ道も、これから
約5年をかけて石畳風の道にすることにしています。単に見た目
として景観を古風にするのでなくて、300年前の人の思いを
振り返りながら進めていくまちづくりが大切ではないでしょうか。
(小林)
善光寺は日本に最初に伝来したと伝えられる仏像を本尊と
しています。善光寺の周辺には、すでに中世から賑やかな
門前町ができていました。
善光寺や門前町の歴史は、長野市周辺の人にとても人気で、
学習会を開くと、多くの方が参加してくださいます。
また最近、まちづくり関係の催しで、善光寺や門前町の
歴史をお話させていただく機会が増えました。歴史が
まちづくりのキーワードになってきたのは、嬉しいことです。
ところが、善光寺や門前町の歴史が、全国の歴史愛好者に
人気があるテーマかといえば、意外とそうではないのです。
長野郷土史研究会では、機関誌のバックナンバーを
全国に向けてネットで販売しています。そこで、
信濃・長野県の歴史で人気のあるテーマを5年間に
わたって調べてみました。
1位 信濃の武士全般
2位 飯綱(飯縄)信仰
3位 山城・館
4位 武田氏の史跡
5位 真田氏
〃 街道と宿場
7位 戸隠信仰
8位 信濃の御家人
9位 戦国時代
10位 太平洋戦争
善光寺や門前町といったテーマは、10位には入ってきません。
なぜでしょうか?
1つには、歴史というと、武士の活躍が大人気だということ。
学校で習う歴史も、武士がどう活躍したかが中心ですね。
今の「歴女」の関心もそうです。
2つには、寺よりは神社の方が人気があること。神社の方が
身近に感じる人が多いようです。
飯綱神社や戸隠神社は長野県外にもあります。善光寺に
比べて飯綱・戸隠の本が少ないのも、長野郷土史研究会の
機関誌バックナンバーの人気の理由かもしれません。
どうしたら善光寺や門前町の歴史を全国的に興味を
持っていただけるのか、なかなか難しい課題です。
みなさんの斬新なご提案を歓迎します!
善光寺界わいは、「長野県」が始まった場所です。
長野県は、明治4年(1871)7月、西町の西方寺本堂を
仮の庁舎として業務を始めました。お寺なので、本堂内は
畳ですが、そこに赤いじゅうたんを敷き、お役人が靴を履いた
まま仕事をしていたということです。
この西方寺本堂は、それから建て替えられることなく、
今もそのまま残っていて、貴重な建物です。特に文化財指定
されていませんが、これぞ「県宝」ではないでしょうか。
明治7年10月、今の信大教育学部の場所に県庁舎が新築
され、西方寺から移転しました。ところが、この建物は、
明治41年5月に、原因不明の火災で全焼してしまいました。
広い用地を確保するため、現在の場所に移転新築をすること
になりました。しかし、この際、松本市へ県庁を移転させよう
という意見や、市内でも城山や加茂神社付近への移転を求める
意見もありました。
実は長野県庁は、明治41年11月から、城山公園にあった
共進会参考館という建物を仮の庁舎として、使ったのです。
だから、城山に県庁をつくるのも、自然な発想です。県庁は
その後、大正2年6月に現在地に移転するまでの約3年半もの
間、城山の地で業務を行いました。
(ちなみに現在の県庁の建物は、昭和42年の再建です)
城山は、歴史上、何かと話題になる場所です。