9月26日(日)、24年ぶりとなる東町の武井神社の御柱祭が
盛大に行われました。
御柱祭といえば、やはり諏訪の諏訪大社です。でも、この門前町
でも御柱祭を行うのは、武井神社もまた諏訪の神である健御名方命
(たけみなかたのみこと)をおまつりしているからです。
なぜ24年ぶりだったかというと、この善光寺の門前町では
4つの神社が6年に1度(7年目ごとに1度)持ち回りで御柱祭を
おこなっているからです。4社×6年=24年というわけです。
その順番は湯福神社、水内大社(城山県社)、妻科神社、武井神社の
順です。しかし、事情で延期されることがあれば、1つの神社に
まわってくる間隔は24年よりさらに開いてしまいます。
写真は、6年前(2004年10月3日)の妻科神社の御柱祭
です。あの日は、強い雨が降っていて、とても肌寒い日でした。
今回の武井神社の御柱祭は、晴れてよかったですね。でも6年前は
雨だったからこそ、私には鮮明な記憶が残っているのかもしれません。
長らく更新をお休みしていましたので、久しぶりの更新です。
今後ともよろしくお願いいたします。
長野駅善光寺口を出てすぐ、目の前に白い10階建ての
ビルがあります。「ホテル池紋(いけもん)」です。
このホテル池紋は、もと旅籠(はたご)で、江戸時代から
大門町(今の信金大門町支店)の場所で営業していました。
池紋というのは、池田屋紋右衛門の略です。
池紋は、明治21年(1888)に長野駅ができたこと
で、駅前に旅館の支店を出したのです。後に、大門町の
本店を閉じて、駅前のホテルのみの営業となっています。
また、藤屋や五明館などの旅館も、駅の開業に伴って
駅前に支店を出しましたが、こちらは駅前での営業からは
手を引き、現在は大門町でレストランとなっています。
長野駅前のビルにも、古くからの門前町の歴史は
つながっています。(小林)
この写真は、明治41年(1908)に善光寺北側の山から、
現在の城山公園一帯を見渡した風景です。その年、城山では
「一府十県連合共進会」という産業博覧会のような催しが
行われました。大きな建物は、その時の展示館です。
その周辺にも注目してみると、手前の箱清水地域もその奥の
三輪地域も、建物はまばらで、広大な田畑が広がっています。
広大な善光寺平の田園地帯を「海」に例えると、多くの
建物が密集した善光寺町は、その海に浮かぶ「島」のような
存在だったのではないかと私は想像しています。 (小林)
権堂にある映画館・相生座は、明治25年(1892)、
千歳座(ちとせざ)という名前の芝居小屋としてオープンしました。
(以前に「015」でも紹介しました)
千歳座という名前の芝居小屋は、当時、東京を始め、全国各地に
ありました。しかし、経営が同一人物というわけではなかったよう
です。
長野の千歳座の開場式は、明治25年12月に行われました。
東京から歌舞伎役者である初代・市川左團次(いちかわさだんじ)が
来場し、連日歌舞伎を公演しました。その広告が、当時の信濃毎日新聞の
1面トップに、12月1日から7日まで、6日を除き毎日掲載され
ました。当時は1面のトップは普通の記事でなくて、広告だったのです。
その広告によると、市川左團次は、長野の千歳座での公演に
招かれたことで、善光寺に参詣したいという長年の願いがかなう
と喜んでいます。
善光寺のある町だからこそ、この町で行う公演には特別の
思いがあったことでしょう。(小林)