2016年12月16日、ひとつの歴史が静かに終わりを迎えました。
長野市街地と、善光寺から北の、桜坂・展望道路・七曲りを経由するバスルートがこの日をもって廃止されたのです。
それによってアルピコ交通の、桜坂、雲上殿、花岡平、鍋石、新安、荒安、京田口、門沢口の計8つのバス停も廃止されました。
市街地のバス停にはこんな掲示が ↓
もう最後は、この区間を走る長野市街地と飯綱経由で戸隠を結ぶバスは、土日祝日は全便が、平日も戸隠行き12本のうち午後1時以降の6本が、長野行き11本のうち11時以降の8本が、浅川ループ橋経由で運行されていました。
桜坂・七曲りの周辺で乗り降りする人は、少なかったのかもしれません。カーブのきつい七曲りから浅川ループ橋経由にして運行上の安全を確保するのも、いたしかたないことではあるでしょう。
でも、かつての戸隠へのメインルートからバスが姿を消すのは、寂しいことです。
この区間からバスが消えることに、私は、もう1つの大きな時代の流れを感じます。
それは、かつて善光寺の北側が、観光地として開発されてきた、その歴史にも1つの終止符が打たれたように感じるからです。
展望道路ができたのは、戦前の昭和の大恐慌による、失業対策だったと言われています。
戦後、善光寺雲上殿が完成。雲上殿の脇からは、地附山(ぢづきやま)の山頂を結ぶ「善光寺ロープウェー」が運行していた時期があり、乗り場には「善光寺ヘルスセンター」という施設もありました。郵便貯金会館だってできました。地附山の北側の斜面にはスキー場もありました。
大峰山の山頂には、天守閣風の建物が建てられました。
展望道路沿いには、歌が丘の歌碑も並んでいます。
こうした場所は、車で巡るだけでなく、展望道路を走るバスもあって、それを利用して行楽に訪れた人たちもいたわけです。
この区間のバスが廃止されたことで、ますます、それが遠い過去のことになってしまったように感じられます。
鉄道の路線のように最後がマニアで大騒ぎになることもなく、静かにその役目を終えたバス停たち。長いこと、ありがとうございました!
10月10日(体育の日)、湯福神社で24年ぶりとなる御柱祭(御柱大祭)は、氏子たちの熱気のもと、見事に行われました。
往生地公園を出発して、坂を下る御柱。柱のすぐ近くで曳かせていただきながら、撮影。急坂で迫力満点でした。
御柱祭は、信仰を体で感じることができる、素晴らしいお祭りです。
長野郷土史研究会で調査したところ、長野市内では今年、湯福神社も入れて64もの神社で御柱祭が行われたことがわかりました。(機関誌『長野』305号)
長野市が広しと言えども、64というのはたいへんな数で、諏訪大社のおひざ元の諏訪地域を除けば、数では最も御柱が盛んな地域が長野市です。
長野市で御柱が盛んな理由は定かではありませんが、諏訪信仰が盛んであることには間違いありません。湯福神社も諏訪の神様をまつっています。
また、中山間地に多いというのも特徴です。
ただ、長野市らしいなと気がついたのは、長野市の場合、まちなか(街)に暮らす人が御柱祭にかかわっているということです。善光寺界隈でも、松代でもそうです。
松本市でも上田市でも飯田市でも御柱祭は行われていますが、中心市街地の古い街の行事というわけではなさそうです。
このことから、長野市の場合は、まちなかから山まで、御柱という文化を共有している地域だということがとても貴重です。
24年ぶりの開催となる10月10日(祝・月)の湯福神社御柱祭が迫り、まちでは、ポスターを見かけるようになりました。
柱は2本です。一之柱は新町を8:30、二之柱は往生地を9:00に出発し、午後は玉井薬局前から一緒になり、14時に宮入りし、15時に建て御柱が行われる予定です。2本の柱の曳行ルートは、ポスター(画像)を拡大してご覧ください。
↑クリックすると、拡大します。(うまく見えない方は、Internet Exploreの場合は、右クリック→「リンクを新しいタブで開く」)
一之柱は善光寺の参道も通ります。9時ごろ仲見世通り、12時半ごろ大本願前を通る予定です。善光寺の参拝者も驚かれることでしょう。
来たる10月10日(月・祝)、湯福神社では24年ぶりとなる御柱祭が行われます。
善光寺を守る三鎮守(さんちんじゅ)もしくは、善光寺三社と言われる神社があります。
湯福神社、妻科神社、武井神社がその三鎮守、三社で、いずれの神社も御柱祭を行います。
これに、健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみこと ひこかみわけ)神社を入れて、6年ごとに交替で御柱祭を行っています。
前回に続き、2010年の武井神社御柱祭の様子を写真で紹介します。
来たる10月10日(月・祝)、湯福(ゆぶく)神社では24年ぶりとなる御柱祭が行われます。
なぜ24年ぶりなのでしょう。
善光寺界隈の旧長野町では、「湯福神社」「健御名方富命彦神別(たけみなかたとみのみこと ひこかみわけ)神社」「妻科(つましな)神社」「武井(たけい)神社」の4社が順番で、7年目ごとに(6年に1度)御柱祭を交替で行っています。
ですから、4×6年=24年ぶりなのです。
ところが、実際には、事情により1度開催ができないことがあると、遅れますので、24年より間隔が開いてしまうこともあるのです。
前回の湯福神社の御柱祭は24年前の1992年でしたが、次の湯福神社の御柱祭が24年後の2040年に行える確証はありません。
いかに、今回の湯福神社の御柱祭が貴重かがわかります。
町によっては、2つの神社の氏子になっていたり、そもそも「健御名方富命彦神別神社」は、湯福・妻科・武井神社の氏子がすべて氏子になっていることもあり、負担を考えて、このようなやり方が取り決められたのでしょう。
24年前の湯福神社の御柱祭を私は見ていないので、前回6年前(2010年9月26日)の武井神社の御柱祭の写真を紹介します(いずれも、権堂アーケードで撮影しました)。
馬や木遣りなどを先頭に、1日かけて氏子の町を御柱がめぐり、最後に神社の境内に建てます。
10月10日に向けて、気持ちを盛り上げていくきっかけになれば幸いです。(小林竜太郎)