長野・門前暮らしのすすめ

門前暮らし日記

085 昭和通り・新田町交差点から北側が石畳の意味

 善光寺表参道(中央通り)は、昭和通りと交わる新田町交差点を境に、北(善光寺側)が市道、南(長野駅側)が県道になっています。歩道も、北が石畳敷、南がタイル敷になっています。
mukashi085_1.JPG
昭和通りより北の歩道。平成8年(1996)改修完成
mukashi085_2.JPG
昭和通りより南の歩道。平成3年(1991)改修完成
 近年では、昭和通りから北側だけで歩行者天国が行われることもあり、昭和通りは町全体を南北に分けているかのようです。
 ところが、この昭和通りは、その名の通り、できたのは昭和になってからです。この昭和通りは、町と町の境界でもありません。では、ここに交差点ができた理由は何でしょうか。
 もともと、今の新田町交差点から東には、「菊屋新道」という細い道がありましたが、今の昭和通りの歩道より狭いほどだったそうです。それが広くなったきっかけは、太平洋戦争末期に空襲の被害を避けるための建物の強制撤去でした。
 また、新田町交差点から西は、県庁の南から県町通りまで延びていた「大正町」という通りを、昭和10年(1935)に中央通りまで延長したものです。
 新しく開けた新田町交差点には、昭和29年(1954)には長野県で初の信号機が設置され、昭和30年代にはデパートも出店し、長野市で一番にぎわった時期がありました。
 善光寺への石畳敷が、現在、昭和通りの新田町交差点から始まっていることは、歴史的には、実は特に深い意味はありません。その南には、善光寺とのゆかりの深い、かるかや山西光寺があること、門前町はもともと昭和通りで分断されていなかったことが忘れられないでほしいと思います。