私たちが引っ越してきた2010年9月4日のこと。引っ越しやさんの大型トラックをどこに止めてもらおうか困っていると「うちの駐車場に止めたらいいや」と声をかけてくれたのがお向かいの小沢さんでした。どうやら小沢さんは体調を崩して入院し、しばらく家を空けていたらしく、わが家の引っ越しの様子を見に来た近所の人たちが小沢さんの姿を見つけては「どうしてたの」「どこ行ってただい」と次々に声をかけていました。それこそ通りがかる人、みんながみんな。ちょっとした町内会の寄り合いのような輪ができて、私はそこでご近所さんを紹介されたり、ゴミ出しルールを教わったり。引っ越し初日から人情とやらに触れたようで、「門前に来て良かったなあ」と思ったことを覚えています。実は、わが家の下見に来た時から、私たち夫婦はお向かいは空き家だと思い込んでいました。古家の入り口には黄色いプラスチック製の鎖が渡され、その敷地内にはなぜかバスタブや室内物干や、いろんなものが雨ざらしになり、トタン板や材木や鉄パイプが無数に散らかり、玄関先には「防犯カメラ設置」の札。そんなつっこみどころ満載の光景が広がっていたからです。小沢さんは入院をきっかけに老人福祉施設のようなところに入居したらしく、ご自宅に帰ってくるのは日中のみ。送迎のクルマで帰ってくれば、駐車場の草取りをしたり、片付けをしたり(一向に片付く気配はないのですが)、家にじっとしていることはほとんどありません。わが家のウッドデッキや湯福神社前の石段がお気に入りで、腰掛けて往来をながめながら、歌を歌ったり、道行く人に声をかけたり。社交的な人なので、知り合いが多い。知り合いでない人にも「どこ行くだい」と声をかけています。オープンマインドな小沢さんは、社会の窓もたびたび全開で、そんな時も女子高生に「おかえり」と気さくに声をかけるので私たち夫婦をハラハラさせます。ある日、家の中からお菓子の袋を捜し出してきて「子どもらに」とくださったことがあります。口から無数のアリが這い出てきて、ぎょっとしつつ、恐る恐る袋を開くと、中にあったのはトチの実でした。二カッと笑って、自分のリンゴ畑へ行く途中にトチノキがあることを教えてくれました。とにかく愛嬌のある人なので、顔を合わせるたびに言葉を交わし、小沢さんのこと、この辺りのことを少しずつ教えてもらっています。小沢さんは生まれた時からこの街に暮らしていて、たぶんおじいさんの代からここにいて、子どもの頃、小沢さんちは駄菓子やさんだったこと。当時、桜枝町から湯福神社へ至る道沿いはびっしりと商店が建ち並び、それは賑やかだったこと。戦前、わが家は布団の綿屋だったこと。戦時中は長野高等女学校(現在の西高)に軍が駐留し、中佐だか偉い人がわが家に住んでいたこと。昔はあちこちに井戸があって、各戸に水道が敷設されてからほとんどふさがれてしまったけど、水はまだ湧くこと。「お宅の裏にもあったよ」と場所を教えてくれました。小沢さんの奥さんはどこかの施設に入居されていて、よそに住んでいる息子さんと、名古屋にいる娘さんは、もうずいぶん長いこと帰ってきていないそうです。わが家のクルマは名古屋ナンバーなのですが通りかかると呆然としたような、なんともいえない表情を浮かべます。クルマに乗っていたのが私だとわかると、「ああ、どちらさんかと思った。娘が名古屋にいるもんでね」と、言います。毎回のように。今日は直太朗も一緒に、小沢さんと落ち葉をはいて、草取りをしました。私の実家に預かってもらうことが多い直太朗は、ケアマネをしている母に連れられて毎週のように老人ホームへ慰問に行くので、おじいちゃんやおばあちゃんが大好き。小沢さんのことも「じーちゃん」と呼び、随分なついていました。あ、防犯カメラはホントにあるそうです。駐車場の無断駐車を監視するために設置したそうな。(妻記)