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 今年もゴールデンウィーク、門前では「ながの花フェスタ 善光寺花回廊」が行われ、多くの人が訪れました。

 再び静かになった町ですが、この町は花の町だと実感する光景に出会います。

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 栽松院(問御所町)の「子育地蔵尊」。赤いお地蔵さまや六地蔵に、花がお供えされています。8月23日には地蔵盆が行われ、子どもたちが集まります。

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 かるかや山西光寺(北石堂町)の「へび塚(大蛇の墓)」。花の他、卵や缶ビールがお供えされている日もあり、信仰を集めています。

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 藤棚のある「諏訪社」(上千歳町)。昔から「藤の森」と呼ばれる藤の名所です。

 いつからはわかりませんが、百年以上に渡ってこの町に暮らす人が花を大切にしてきたことに、最近では気がつく人も少なくなりました。善光寺花回廊が、それ気がつく機会にできたらいいと思います。

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 善光寺の参道・仲見世通りには、たくさんの商店が軒を連ねています。

 また、仲見世通りの西側に平行している西院(さいいん)通り、東側に平行している釈迦堂通りのそれぞれ内側(仲見世通り側)も、商店や住居が建ち並んでいます。善光寺には宿坊(院と坊)が39もありますが、このエリアには、宿坊は一軒もありません。

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 なぜそうなっているのかには、理由があります。現在の善光寺本堂は、約300年前の江戸時代1707年建立ですが、その前まで本堂があったのは、この仲見世の中央付近だったのです。現在、仲見世の中央にある延命地蔵尊は、本堂のご本尊がまつられていた瑠璃壇(るりだん)の跡です。

 つまり仲見世は、元々は善光寺本堂のある境内地で、堂庭(どうにわ)と呼ばれていました。庭ですから、そこに宿坊はなく、その周りを宿坊が取り囲むように建っていました。ですからその名残りで、西院通りと釈迦堂通りの内側には現在でも宿坊はないわけです。

 この仲見世通りには、江戸時代から仮設の建物が建っていましたが、永久建築が許されるようになったのは明治以降です。以来、民間の建物で商売を続けたり、人が暮らし続けたりすることが認められている場所ですが、土地としては善光寺大勧進と大本願の一部となっています。
 
 つまり、いま流行している「駅ナカ」と似ているんですね。
 「駅ナカ」は商業地で、様々な業種の店が出店していますが、場所はJRの所有で、駅の中の一部です。仲見世も、善光寺の中にあり、いわば「寺ナカ(てらなか)」(私の造語)です。

 それでも、駅ナカとの違いは、出入りの自由さです。切符(拝観券)を買わずにいつでも入れます。また、「寺ナカ」の仲見世も、外側に広がる門前町の中核の場所と見なされています。善光寺の中にありながら、門前町の核でもあるという、興味深い構造になっています。


 「駅ナカ」がもてはやされるのに、「寺ナカ」は全く注目されていません。善光寺という宗教空間の一部でもある仲見世が、商業的に目立ってはいけない事情もあるでしょう(あくまで主役は善光寺でなくてはなりませんから)。

 それでも、空き店舗が一軒もない仲見世通りは、全国のまちづくりの先進地として発信され、市民の誇りとなっていいのではないでしょうか。
 仏教と、商業や日々の暮らしとは、決して別々の存在ではないのですから。

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 以下に掲載するのは、西之門町の昭和33年(1958)の地図です。(地図が間違っている可能性もありますが、そのまま掲載します。)

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 これは、昭和33年(1958)に出版された『長野市住宅明細地図』という住宅地図で、県立長野図書館にあります。発行元は、岡山県新見市にあった、日本地図編集社です。(なぜ、はるばる岡山県の会社が長野市の地図をつくったのか、謎です。)

 現在、日本地図編集社という出版社は、もうありません。そして、50年が経過し、著作権も切れているので、紹介します。

 くまなく長野市内の1軒1軒が載っている地図で、私が今までのところ見つけた最も古いのが、この地図です。本当は、大正・明治・江戸時代、さらにはそれ以前の家並みがどうなっていたかも興味深いのですが、1軒1軒まで記すという発想は、意外と新しいものです。

 この地図が最初かわかりませんが、最初に住宅地図をつくるための調査は、たいへんな苦労があったのではないでしょうか。(一度つくれば、後は変化した箇所だけ修正し、改訂していけばいいですからね。)

 もし、当時の1軒1軒の家並みの写真もあったらどんなに貴重だろうと思います。
 だからこそ、私たちは、丁寧に今を記録し、未来に残していく必要があるのではないでしょうか。それは、いつかきっと誰かの役に立つことでしょう。

 岡山の日本地図編集社に感謝!!

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 2月19日(日)まで行われている「長野灯明まつり」では、ふだんは拝観できない善光寺の宿坊のいくつかを特別に拝観することができます。

 おすすめの1つが、堂照坊(どうしょうぼう)です。仁王門の手前東側にあります。


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 堂照坊は、親鸞聖人が1212年に百日間滞在された宿坊です。親鸞聖人が南無阿弥陀仏と書かれた「笹字の明号」の掛け軸や、親鸞聖人の前歯を、奥様のご解説で見せていただくことができます。
 なんとちょうど今年2012年は、親鸞聖人がこちらに滞在されてから、800年に当たります。

 それにしても、約800年前は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が善光寺を参詣したり(1197年)、かるかや山西光寺や往生寺を開いた刈萱道心と石童丸が善光寺に来たりと、多くのことが伝えられています。この時代、善光寺の名は、著名な人物によって、全国に発信されることになりました。その逸話は、門前にいくつも残されました。
 800年前に、今の長野の町の基礎が築かれたとも言えます。

(たとえば、私の暮らす問御所も、源頼朝が休んだ所を御所と呼んだことにちなむ地名という説があります)

 これだけ町並みや価値観の変化が著しい今日ですが、果たしてどれだけのことが数百年後に残せるのだろうと思うと、800年前の善光寺と門前町がたいへんな輝きをもって感じられます。

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 お稲荷さんをまつる神社で、全国的に2月の最初の午(うま)の日やその前後に、一年の商売繁盛などを願って行われる行事が「初午(はつうま)祭」です。しかし、どの神社でも行われるわけではなく、善光寺周辺では、淀ヶ橋の「樋下(ひのした)稲荷」など数か所のようです。

 今年はたまたま2月3日が、2月最初の午の日でした。節分と同じ日だったわけです。

 2月3日午前10時から西後町の「仲町(なかまち)稲荷」で、初午祭が行われ、お参りに行ってきました。場所は、朝日八十二ビルの北側です。仲町というのは、善光寺表参道(中央通り)の朝日八十二ビル北側から西に入って、犀北館に突き当たる道のことです。鳥居も標識もふだんはありませんので、気づく人もほとんどいない小さなお稲荷さんです。

 参列したのは、八十二銀行本店や、朝日八十二ビル内の八十二銀行長野支店やテナント、周辺商店などの方々です。もともと、この地には八十二銀行の本店があったことから、岡田町に本店が移転した現在でも八十二銀行では、このお稲荷さんを守り、信仰し続けています。
 
 このお稲荷さんは、江戸時代には、現在では東後町にあるかつおぶし屋「能登重」の屋敷神だったと伝えられています。しかし、私の先祖の屋敷神だったという説もあります。小林家は、江戸時代、西後町で商いをしていました。

 昔は個人のものだったお稲荷さんが、長野県を代表する企業によって守られているのは不思議です。そうなるまでには、このお稲荷さんを盛りたててきた、まちの人々の多大な努力があったはずです。かつては権堂の芸妓さんもお参りに立ち寄ったという話を地元の方から聞きました。

 でも、これまでのすべてを知っているのは、もう神様だけでしょう。

 お参りしたら、お種銭をいただきました。銀行の方からいただけるのは、何とも嬉しいですね。来年は、ぜひ皆様もお出かけください。

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