長野駅善光寺口を出てすぐ、目の前に白い10階建ての
ビルがあります。「ホテル池紋(いけもん)」です。

このホテル池紋は、もと旅籠(はたご)で、江戸時代から
大門町(今の信金大門町支店)の場所で営業していました。
池紋というのは、池田屋紋右衛門の略です。
池紋は、明治21年(1888)に長野駅ができたこと
で、駅前に旅館の支店を出したのです。後に、大門町の
本店を閉じて、駅前のホテルのみの営業となっています。
また、藤屋や五明館などの旅館も、駅の開業に伴って
駅前に支店を出しましたが、こちらは駅前での営業からは
手を引き、現在は大門町でレストランとなっています。
長野駅前のビルにも、古くからの門前町の歴史は
つながっています。(小林)

この写真は、明治41年(1908)に善光寺北側の山から、
現在の城山公園一帯を見渡した風景です。その年、城山では
「一府十県連合共進会」という産業博覧会のような催しが
行われました。大きな建物は、その時の展示館です。
その周辺にも注目してみると、手前の箱清水地域もその奥の
三輪地域も、建物はまばらで、広大な田畑が広がっています。
広大な善光寺平の田園地帯を「海」に例えると、多くの
建物が密集した善光寺町は、その海に浮かぶ「島」のような
存在だったのではないかと私は想像しています。 (小林)
権堂にある映画館・相生座は、明治25年(1892)、
千歳座(ちとせざ)という名前の芝居小屋としてオープンしました。
(以前に「015」でも紹介しました)
千歳座という名前の芝居小屋は、当時、東京を始め、全国各地に
ありました。しかし、経営が同一人物というわけではなかったよう
です。
長野の千歳座の開場式は、明治25年12月に行われました。
東京から歌舞伎役者である初代・市川左團次(いちかわさだんじ)が
来場し、連日歌舞伎を公演しました。その広告が、当時の信濃毎日新聞の
1面トップに、12月1日から7日まで、6日を除き毎日掲載され
ました。当時は1面のトップは普通の記事でなくて、広告だったのです。
その広告によると、市川左團次は、長野の千歳座での公演に
招かれたことで、善光寺に参詣したいという長年の願いがかなう
と喜んでいます。
善光寺のある町だからこそ、この町で行う公演には特別の
思いがあったことでしょう。(小林)
大門町は江戸時代、善光寺宿(ぜんこうじしゅく)と呼ばれる
北国街道の宿場でした。宿場というのは、旅人が泊まったり、
馬の乗り継ぎなどをしたりした場所で、宿駅とも言われます。
では、北国街道で善光寺宿の次の宿場はどこかというと、
南は丹波島宿(たんばじましゅく)で、
北は新町宿(あらまちしゅく)でした。
丹波島は、今は「丹波島橋」として、市民の誰もが知っている
地名です。昔は橋はなく、渡し場がありました。宿場は、橋の
南西にあり、その名も丹波島という地名が残っています。
新町は、地名がないので、現在ほとんど知る人はいないの
ですが、今の若槻地区にありました。
明治21年(1888)、鉄道が善光寺平に初めて通った時、
善光寺のある長野の町の入口として設けられたのが、長野駅
(停車場)でした。長野駅は、旧善光寺宿を引き継ぐ意味も
あったわけです。
ところが、長野駅の隣りはというと、
南は篠ノ井駅、北は豊野駅でした。
当初はまだ、安茂里駅はおろか、川中島駅もなく、
吉田駅(今の北長野駅)もありませんでした。
丹波島も、新町も完全に鉄道の路線からは無視されてしまい
ました。本当なら、それぞれに最寄りの駅が開設されても
おかしくないはずなのになぜでしょう。
私が注目しているのは、次の2点です。
(1)遠距離の輸送を目的に線路が敷かれたからではないか
今の新幹線が、かつての特急あさまの停車駅だった篠ノ井や
戸倉に駅をつくらなかったように、丹波島や新町は近すぎる
として、駅が設けられなかったのではないか。
(2)川や勾配を避けて線路が敷かれたからではないか
丹波島の渡しに橋を架けることが当時は難しかった
からではないか(裾花川が合流する地点は、水量も多い)。
牟礼まで行くのに、峠を越えるルートを避け、豊野を
経由することとし、長野・豊野をなるべく直線で結ぼうと
したからではないか。
よく、宿場がさびれるという理由で、鉄道を通すことに
地元の人が反対したからだと説明がされることがあります。
ところが、長野を始め全国のほとんどの地で、その類いの
記録は実際には見当たらないそうです。
たとえもし鉄道反対の声があったとしても、鉄道は
もっと大きな国の力をもって建設されていたのだと思います。